埋立事業は1966年(昭和41年)に始まり、1982年(昭和57年)に現在の草津港や商工センターなどの造成が完了しました。
2014年時点で撮影した写真と、同じ地点を埋立前に撮影した写真とを並べてみました。
埋立前の写真の撮影年月日は不明ですが、おそらくは昭和40年代なかば頃、古くとも昭和30年代後半であろうと思われます。


旧中央魚市場のあった場所は、現在はマンションが建っています。
市場にはパリパリの皮の美味しい鯛焼き店、喫茶店などがあったというお話を聞いております。
草津の市場は、元は現在の亀康さんの裏手あたりにありましたが、昭和4年に現在の広電草津南駅のそばに移転。昭和23年10月にこの写真のマンションのあたりに移転していました。


西部第八埋立公園の通称"丸公園"。ここも埋立前は海。
写真奥の水際の家の向こう側には宮島街道。古い写真に写っている建物の中には、現在も健在のものがありますね。


おおむね同じあたりからの写真。正一位福満稲荷がある公園出入り口のあたりです。


"丸公園"から五日市方面を眺めた写真。写真左端に住吉神社。昔も今も同じ位置にあります。
奥の大きなマンションの位置が、かつて旧中央魚市場があった場所。


"丸公園"からみゆき保育園方面に向かう出口あたりからの写真。
現在の写真の一番手前に写っている建物ですが、古いほうの写真にはまだありませんね。


同じ場所からみゆき保育園方面を向いて撮影した写真。
古いほうの写真にはみゆき保育園の建物も写っていますね。写真右奥、みゆき保育園の横に見えているのは、江波か観音の三菱重工でしょうか。
草津新町や西区スポーツセンターのあたりから南側の埋立てはまだ始まっていないので、現在の住吉神社あたりからは、広島湾の広い範囲が見渡せたのでしょう。


西部第八埋立公園のゲートボール場の端から北東方面に向けて撮影した写真です。
画質が悪いのと縮小してるのとで画像からは確認できないと思うのですが、鞆の浦などには今でも残っている「雁木(がんぎ)」が旧草津漁港にもありました。階段状の石段になっており、干潮でも満潮でも船を着けることが出来ました。

その雁木を構成していた石は、現在も西部埋立第八公園に同じような形状に組まれて残されています。
もうちょっと画角などを揃えた「完全に一致」な美しい写真でご紹介したいところですが、技量が足りず…。ひとまずこんな感じでご勘弁を。

上記の写真を撮影した西部埋立第八公園近辺の地図です。
このエントリーの写真が撮影された時には、おおむねこの画像の色分けをした部分までが埋立てられていただろうと思われます。
色は埋立の年代を表しており、以下のようになっています。年代や範囲などが合ってるかどうかはひとまず保証できませんのであしからず。
江戸(1600年代)…ブルー
江戸(1700年代)…オレンジ
江戸(1800年代以降)…ピンク
明治…グリーン
大正…ブラウン
昭和…イエロー